やえざくらげんそう

windyman2

2012年2月18日(Sat)

脱水機に二槽式なので水洗いが終わった洗濯物を入れてバケツ3ヶ分になる

のであるが、これを庭に持って行き物干竿に干すところまで手伝うつもりで

あったが、どうもやることが間尺に合わないようで、3行タイピングした時

にはすでに隣人は庭に出て全部干し終わってこれから昼寝をするというとこ

ろだった。

たとえば、プラセボGoogleで調べるとWikiでは、偽薬(ギヤク)と言う

のである。

一定の解説はあるのだけれど、自然医学ほどの肯定的な回答はそこにはない。

むしろ否定的な意見が報告されている。

これでは、やはりと言うか、WWWつまりインターネットでは今のところはま

だまだ、専門書には叶わないというか、厳密に言えば、Wikiが通り一遍と言う

かどちらかと言うとある傾向に片寄った情報を流していると思われても仕方が

ない。

否、積極的にある傾向を持った人々が暗黙のうちに情報操作に協力していると

したら、やはり、

専門書を実際に手に取り自分で読んで解釈するという古典的方法を繰り返す以

外に真実にいたる道はまだないと言わざるを得ない。

あるいは、手探りで試行錯誤を繰り返すというもっとも原始的な方法もあるの

だが。

原始的な方法は、もうここまでにしよう。

落ち着いてよく見、聞きするだけで、その人が何を言っているのかが分かるよ

うになるまでには、長年の失敗の連続のような修業の結果、何とかやっとこさ

なったばかりなのだから。

たとえば、20キロ圏内にアパートを借り住民票を移して、会社を新規で登記

ればあるコネクションを通じて高額の融資ができる他にも東電や国からの賠償金

をもらうことができるというまことしやかな、それでいて何処か巧妙な詐欺の甘

い勧誘の言葉に似ているのだが、さて、そのために引っ越し費用や会社設立の費

用までも出してあげるというのだが、まるで何処かで聞いたことがあるような、

路上生活者にアパートを借りてあげて国民健康保険証を交付してもらい生活保護

申請までやってあげるという手口に似ていると思わないかい。

悪徳もまた徳であると言ってしまうと、おそらく被害者は救われない気持ちにな

るだろう。

プラセボ被災地もたぶん問われているのは人々の心だったのだと思う。

方法を問わずに得る事ができる高邁な軍資金の一部で今までにお世話になった人

々に恩返しができたらどんなにいい気分だろうと我々は思うのだろうか。

いま人々が問われているのは、方法と手段が問われているのではないのか。

H10年式ミニカ・タウンビー、4ドア、走行125500キロ、車検は来年の8月ま

で、タイベル交換済みがスタッドレスタイヤを履いているのだが、ヤフオク

10万円位で手放そうかなと思っていたら雪の日に結構荒っぽい運転をした性か

なあ。

エンジンが1発死んだ感じだ。

プラグでも弛んだのかと思ってプラグコードを外してみたら1本だけオイル上

がりがひどくてゴムがふやけていてプラグにうまく差すことができない。

エンジンのヘッドカバーを開けてガスケット交換もやらなければと思っていた

ら始動時にファンベルトから異音がし始めた。

例によってベアリングが割れたのではないかと思われるような、素人にはかなり

ヤバイ状態ではないかと不安に陥れるあの音だ。

H2年式アルト・ワークス、ターボ、ノンパワステ、ローダウン、走行不明、タ

イベル交換済みに自賠責を切り、市役所で仮ナンバーを借りて車検を受けるまで

乗りはじめる。

タウンビーは、系列の解体屋から7万円で買って木製ハンドルに代えてキャルル

ックに仕上げたつもりであるが、内装も高年式のミニカ・ターボの不動車からサ

ポートの高いモケットシートを全部ただでもらって乗せ代えてある。

タイベル交換は、購入してすぐやったので11万キロくらいだったと思う。

1年半で1万5千キロ乗った勘定である。

ターボかって聞かれるくらい市街地走行では早い。

たぶん、元・F1レーサーでパンチドランカーのナンブ氏のナビ席に乗って埼玉

農道を走った経験から、上手い奴はどんな車に乗っても上手いのだと確信するよう

になった。

ファンベルトが限界までのびたのでシンカに行ったついでにNGKのプラグも4本

買って交換してやると、とりあえず症状は治まった。

しかし、オイル上がりし始めている事実は事実であり、余裕が出たらプラグコード

全部を赤コードに代えたりヘッドガスケットを交換してやるつもり。

アルトワークス・ターボは、ノンパワセテだが、ローダウンにしてあるので乗っ

ていて面白い。

メーターパネル内にシートベルトアプリケーション・ランプがないが、これは

何だろうと思ってよく考へたらH2年式だからでこのままでいいのだ。

当時は高値の花のスゲエ車だったのを思い出す。

ただ、タイベル交換記録がH7年に47000キロとなっていて、オドメーター

750キロで止まったまま動かない。

最近の検査官は、この辺りを追いて来るのだろう。

しかし当時の車のオドメーターは最初から10万単位の表示がないのだから、1回

転してますって言えばそれでいいのである。

ヤフオクを見るとどちらも10万円では売れそうにない。

隣人に何と言って言い訳をしたらいいのだろう。

本当に10万円で売れるのかって聞かれたときどうして大丈夫だなんて言ってしまっ

たのだろう。

30年前は考へられない社会状況である。

いや、クルマ社会のことなのだが、えらい買い手市場の時代になったものだ。

 

2012年2月17日(Fri)

たとえば、8度だとパブロンでいいけど、9度ある義母には、ジキニンを買って来た

ほうがいい。

氷り枕にいれる氷りも買って来て。

と言われて、コンビニに行くとルルのドリンク剤が目に入ったので、つい買ってしま

う。

冷静にならなくとも、長年、道場子どもたちに東洋医学や自然医学について武道と

の密接な関係について話して聞かせ、ちょうど昨夜から都立図書館から取り寄せた

「自然療法」という分厚い3册の専門書を読みはじめたばかりだと言うのに。

それで、どうしたかと言うと、生姜をすってお湯に入れて飲ましたのだけれど、本人

は意識が朦朧としているのか自力で飲むという感じでないので、何となく叱咤激励し

ながら無理矢理に飲ますといった感じだった。

それから、昼食に稲毛屋でトンカツの揚げたのを一枚買って来たのであるが全然、食

べない。

熊本産の大きな苺に練乳をたっぷりとかけてそれでも4つ位を無理矢理に食べさせた。

朝食の時、義母の様子が変だと思っていたら、夜中に4回もベッドから落ちてその度に

隣人と長女とでベッドに入れたと言うのであるが、4回目は嫌になってフローリング

は名ばかりで冷たい射すよう隙間風が上がって来る床のうえにそのままにして置いた

らしい。

我が家に来て3年目の春だが、ついに義母の心は何ものか見えない物の怪の誘惑に負け

たのかも知れない。

どうしても実家に帰りたい、どうしても義兄とその嫁が恋しいと言うのだが。

その毎日の狂態振りは、いったい全体、どうしたというのだろうと思うのであるが。

やはり、心が折れたのだろう。

いや、折れたというと、そんなにも我慢をしていて終に我慢できなくなって折れたみた

いだ。

両足が異様に冷たいので起きてすぐにバケツに湯を入れて足浴をさせたのだが。

隣人と2人で全身の力を抜いた義母を抱え椅子に座らせてパンツを脱がせて紙オムツを

交換した。

こんな家庭の状態で昨年からずっと放射能から逃げるための疎開先を探している。

家族全員で疎開するということがどんなに大変な決断であるか、何度も何度も挫け続け

ている逃避行の計画なのであるが、私は、家族を置いて自分だけ逃げるようなことは出

来ない。

しかし、去年の途中頃から家族全員で福島に移り住むというそれまでと180度方向が違

う考へかたが浮上していて、これには流石に豪放磊落と言われた私も、内心は混乱して

いてどうなるのだろうと半ばは己のことであるのに他人任せのような情けない日々を送

っている今日この頃である。

 

2012年2月15日(Wed)

週に1度ペースでFacebookを開くのだが、「いいね。」というラジオボタンを押した

人がいるというお知らせメールが何通もたまっているので、何だろうと思って開くと昨

夜は僕自身がOWNERの会社情報が改ざんされているのに気付いた。

どうも使用している言語から中東ハッカーによるものと思われる。

フ~ンと思った。

ドバイ辺りのマンション室内の写真がたくさん貼り付けてあった。

すぐに削除して置いた。

詰まらないことをするやつがいるものですねえ。

今朝は、いつものように6時に起きて3時間だけ朝飯前の仕事をして帰り、隣人が風邪で

8度5分の熱を出し寝込んでいるので、僕が味噌汁を作り圧力釜で胚芽米を炊いた。

味噌汁の出汁には、予め粉末状にされた煮干しだけ。

これに玉葱とピーマンと薩摩芋とワカメと木綿豆腐と芹と玉子を入れて

米味噌を入れた。

これに久米納豆小女子の佃煮と白菜の漬け物を居間の炬燵テーブルに並べ、炊きあがっ

たばかりのご飯をよそって出すと、99才の義母が待ってましたとばかりに僕より先にパ

クパク食べはじめたのです。

丁度、10時頃だったので余程お腹がすいていたのでしょう。

仕事中によく考へ事をする。

南相馬市原町区大みか町にある有名な民間VCの大留さん(80才)と個人的に会って

(初対面だったが、)1年の総括めいた話をして来たのだが、3月以降に立ち上げた彼ら

の民間VCのために彼ら自身が捻り出した金額の総額が約1千万円と言われた。

それで、おたく等は幾らくらい使ったかって聞かれて、僕は、250万円位ですと答え

たのだった。

それはまあいいのだが。

いっしょに行った市民会議の長老が、いつも僕の事を誉めてそう言うのだろうと思うの

だが。この男は家庭を顧みず被災地支援に行動決起した挙げ句に現在、生活に困窮して

おり何か良い仕事はないかと探しているところなのだが、大留さんはどう思うかとかな

んとか言ったものだから、彼もしばらくは、困った顔をしていたのだが、つとこう言い

放ったのだった。

被災地の支援活動やボランテイアをやる人は、生活に余裕のある人がやるものだと思う。

家庭が火の車で、奥さんに経済的な負担をかけてまでボランテイアをやるというのは、い

い事だとは思わない。

こう断言したあと、正月休みには家族で、1週間のハワイ旅行に行くのだと言っていた。

フ~ンと思った。

 

2012年2月11日(Sat)

かねてより福生市立中央図書館にリクエストしてあった「光の輪」ロザリン・L・ブリエ

ール著が中野区図書館にあったらしく本日届いたと電話があったので借りに行く。

ざっと読み終えたところであるが、やはりそうかという感想であり、無茶苦茶な私の修業

の果てにといっても「私」が無茶苦茶なのか「修業」が無茶苦茶なのか読者には何の事や

ら全然分からないと思うが、少しでもヨーガについて考へことがあるかたは、チャクラ

呼吸法がじつは密接不可分な関係にあり、クンダリーニというひとつの悟りの境地に達し

た場合「不思議な体験」をすることができるという

ことなのだけれど。

こういう能書きが多いのだけれど、この手のノウハウ本にはね。

しかし、ロザリンのこの本は、ノウハウ本ではない。

上祐氏の宗教団体の名前もここから由来しているのだろう。

私の優しさが塩見氏を冗長させているとは思わない。

別ページ「ロシナンテ号」の名付け親は、塩見氏であり彼の第一回目の寄稿(By 地球座)

は、部内でも結構評判が良くて、論敵の三上氏さへ絶賛したものです。

風邪っぽくても身体は動くのだということは、長年、道場の主座に立って来た身としては

当たり前のことなのだが、さて問題は、どうするかではなく、どうなるかといった感じで

ある。

 

2012年2月9日(Thu)

やれやれと言ったところであるが、1970年代に「戦後処理」と言った人がいたのを

思い出す。

しかし、ジョブズが生きていた頃からiDISKのサービスのなかでiWebと連動した

Blogは、2012年6月で止めるという路線やったのだから今更しや~ない。

めんどくさいけど、おれのBlogのなかで今まで一番格好良かったんやけど

「About Us」のなかの「Blog パレスチナに献花を」の放映を突然ですが、昨晩で

終了させてもらいます。

唯一の私の音楽活動の欠片を聞く事ができる場所で、自身にとってはほろ苦いような

甘酸っぱいような、それでいて何か決断しなければいけない時にこのページを

訪れると不思議な陶酔に浸れたものだった。

「記録小説・パレスチナに献花を」のほうだけは、6月にiCloudに移行後も閲覧可能

にして置こうと考へています。

そういう訳で、(株)市民電子情報網という知らない人には耳慣れない会社ですが

明日は、そのサーバー使用料を送金しなければと思う。

唯一の身近な存在として一番信頼できるインターネット・ブロバイダーなのだから。

昔、今回よりも幾分緩やかに、homepage.mac.comが、iWebに移行させられた時に

私もこのドメインに「残された人々のためのコンピュータ」という題名のHPを開設して

いたのであるが、移行に失敗してindexとともにフォルダごと消してしまったことが

あるのだが。

往時の雰囲気をつい昨年頃までは残して放映続行された「余丁町散人の隠居小屋」は

その後、ボロボロになりながらもiBlogを使ったりBlogspotを使ったりしていて

新宿4丁目にあるデニーズだけが何故そんなに美味しいのか不思議に思っていたのだが、

やっぱりそういうことがあったのですねえ。

たぶん店長が良かったのですね。

銀座松屋でも昔、可愛らしいウエストポーチ(仏製)を買ったことがあるのだがその後

店長が代わったのだろう、その製品を見る事はもう何十年もないのである。

 

2012年2月6日(Mon)

本来は、「更新履歴」のほうに告知すべき内容ですが、便宜上、「履歴」のほうには後で

コピペすることとします。

遠藤賢司の昨年の「FUKUSHIMA支援コンサート」をYoutubeで見る事ができるのだが、

そこで彼がいつもよく言うセリフなのだけど、「自分に言っている。」というやつ。

そんな感じで今、書くというかキーボードを打っている。

iWebとドットマックが自動的に連動したBlogパレスチナに献花を」を改題して昨年の、

2月頃までMacBook Airからアップしていたものだけれど、余りにも3月以降トラックに

縛り付けて酷使した性でついに半壊状態となりたった6000円で手放すこととなったため、

後継機種に購入したiMacG5 IntelCore2からこのドットマックApple社都合で今年の

6月にはiCloudに手動で移行せねばならないのですが、とりあえずぼくの意識のほうがま

た先行してしまったと言うか、とにかくこのBlogを「iWeb "ANIOTA 」という題名で再

開することにしました。

ブロバイダーの無料のBlogサービスと見た目には大きな違いはないのですが、発信する人

の意識の違いや内容も各社ドメイン内のネットサーフィンをして見ると意外にもある傾向

に気付いたりできます。

もっとも関心事は自分自身が何処から来たのかということとこれから何処に行くのかとい

うことです。

有り体に言えばですが。

 

2012年2月5日(Sun)

1ヶ月くらい前ですが、TwitterJCA-NETの団体アカウントが管理者つまり米国本土CA

のオブビアウス社によって削除されています。

JCA-NETがどれだけ良心的な団体であるかについて知らない人にこの話は通用しないかも

知れません。

我々は、オブビアウス社宛に「何も削除されるような悪いことは何もしていない。」とアカ

ウントの復活をして欲しいとメールを出しましたが、担当者から英文による自動的回答があ

り、それによると何らかの削除該当項目に触れたようです。

ネットを調べると過去にアカウントの復活に成功した事例では毎週1回程度の土下座メール

を出すというものでした。

さすがにそれは余りにも幼稚であり阿呆らしいことなので、我々は、別アカウントを作るこ

とにした。

以上の経緯は、今日におけるネット社会の未来にとってとても重要な内容を孕んでいる。

我々、JCA-NETは、国内唯一の自前サーバーを持つ市民運動団体です。

前出のような事件が、国内の大手ブロバイダーにおいてもし起こったとしたらと考へる時に

皆さんに今、JCA-NETに加入したらどうでしょうかと思うのですが。

 

2012年2月1日(Mon)

午前1時半頃、ベッドから起きだして紅茶を入れ棚にあったアーモンドクッキーを持って居

間の炬燵に入った。隣人が先月99才になった義母のために買ってきた読売新聞が炬燵のそば

に無造作に置いてあったので、久し振りに、いや、1年振りにと言っても過言ではないのかも

知れない。

30分くらいしげしげと読んでいた。

創価学会の機関誌とは書いていないのであるが「第三文明」が紙面の3分の1位をつかって今

月号の広告を出している中に「雨宮処凛」の名前を見てなぜか「どうしてだろう。」と思っ

てしまう。

連載で「作家・雨宮処凛が見る世界」と題して、第2回「未来を変えたいと願う人々」とい

うのであるが、題名の付け方などは良いとしてもそれでも何故「第三文明」になのだろうか

と思うのだ。

別に良いではないかと思う人も居るだろう。

彼女にも作家としての生活もあるのだからって言う人もいるかも知れない。

しかし、つい先月、経産省前テント村の電気炬燵に入って日比谷派遣村々長の湯浅誠

YouStreemの深夜放送にライブ出演したばかりだけれど。

1年位前には、京大岡真理教授と名前を列ねた講演会もやっているというのに。

やはり、「なぜだろう。」と下衆の勘ぐりじゃないのだけれど、「なんでこうなるの。」と

思ってしまうのだ。

さあもう寝よう。

本当にぼく等は遠廻りして家に戻って来たのだった。

本当は、ずっと何となく気が付いてはいたのだけれど。

それでもあの朝焼けの春の終わりに、まさかぼく等の可愛がっていた「ボク」という名の子猫

だけが2階の6畳の自室でいつも通りに温かい背中をあわせて寝ていたのだが、何か主人のただ

ならぬ決意に身も心も張り裂けんばかりにギャアギャアと大声で泣叫んでくれたのだが、この

ことだけ周到にそれまで出立の用意をして来たのであるが、子猫の取ったこの行動だけはまっ

たく予想外の出来事だった。

階下で寝ている父母が目を覚ましはしないかと息を潜めて玄関を出たというのにその頃はまだ

舗装されてない瀬戸内海に浮かぶ島のようなつぶつぶの赤土の万成山の下り坂で、リュックを

背負ったまま何度も振り帰って見ては困ったものだと呆れたのだった。

大急ぎで走って追い掛けて来たお前は坂の上でつと立ち止まり「行かないで、行かないで。」

と尚、可愛い口を精一杯に開けてギャアギャアと泣き続けたのだった。

坂を降り切って塀を曲がってぼく等が見えなくなっても「ボク」という名の雑種の普通のブチ

の雄の子猫はぼく等の気配が遠くなるまで声が枯れて小さくなるまで泣いていたのだろう。

だけども、ぼく等はもうアルチュールランボー詩集のように黄金の春のなかを歩んでいるか

のようでした。

 

2012年1月29日(Sun)

昨年の4月に「九条改憲阻止の会」の全国の会員約2000人に郵便で被災地支援のためのカンパ

を要請したのだが、3月下旬に約20万円分の支援物資を満載した第1次東北支援トラックが東北

自動車道と常磐自動車道を走っている。

準備に1週間以上かかってしまったが、「いやあ?、やったあ、ついに始まるぞ?。」と気分は最

高だった。

東北自動車道は国家権力の指令で最寄りの警察発行の「緊急車両」のステッカーをボンネットに

貼った車だけしか通行できないためガラガラだった。

いや信じられないが、走っている車は皆無に近かった。

福島県に入ると時折、迷彩色の自衛隊ジープ兵站輸送用の幌付きトラックと出会って何か

戒厳令下のような冷たい雰囲気だった。

だけど当時、早くもCMLやPMNにも投稿されていたのだが、ぼく等より1週間くらい早い時期に

魚の腐臭の石巻市ゴーストタウンと化した南相馬市を訪ねている「オタックス」という無名の

漫画家のグループ(もしかしたら有名なのかも知れないが、)やH.R.Pという無名の音楽家のグ

ループ(もしかしたら有名なのかも知れないが、)が、ぼく等と同じ時期(夏の終わり頃、)ま

でに投入した被災地支援カンパの総額がそれぞれ丁度200万円強だったことに何かある共通項を

感じて嬉しくなったものだった。

いや、実は65才から75才の旧全学連と元全共闘の闘士を中心としたぼく等の全国の労働組合

影響力のある(もしかしたら影響力はないかも知れないが、)、ある意味で有名なグループが、

彼らのような都内の20代から30代のある意味で無名な若者たちのグループと同じ位の軍資金

かなかったことに、振り帰って見て少し困惑したりもしたものだった。

南相馬市の市庁舎でH.R.Pの穴水氏と出会っているが、ほとんどすれ違ったというほうが正しい

位、お互いに疾走状態だった。

なかなかの好青年だったように思う。

ぼく等も避難所に支援物資をとどけようと思い立ったのに、不思議なことに3月いっぱいは全く

と言っていい程その情報がなかった。

毎晩、何時間もネットを探したけれど、いったい全体どうなっているのだろうかというくらい

分からなくて、何度も新宿に集まっては、何処へ支援物資を届けるべきかについて議論したも

のだった。

社民党本部に電話で聞いたら被災地の県連本部に聞いてくださいというので福島県連本部に電

話すると担当の県議の名前が2度3度と電話する毎に違ったので、直ぐにこれは変だと思って、

信用できないと思って、それではと当時は杉並区長選で破れてロフトのトークショウなどで若

者に一定の人気があった保坂展人氏に電話したのだが、意外とダメな反応だった。

「丁度、社民党本部で支援物資を集めているので一緒に持って行ってあげようか。」って言わ

れた。

「10トントラックだけど長船さんが運転できるのなら運転手も募集していますよ。」とも言わ

れた。

一度に1.5トン分しか持って行けないから好意でそう言ってくれたのだが、ぼく等は、「冗談

じゃないよ。」と思ったものだ。

いわき市の支援物資の受入先は市の競輪場でそこから避難所まで分配する過程でやはり疑問が

あった。

原発運動家のある高名な市議を紹介されて電話したのだがそれでもぼく等の第1希望の1次避

難所に直接届けたいという希望は最後まで叶えられなかった。

昨年、暮れも押し迫って、とくに支援物資は何も持たないので番外編ということでぼく等のボ

ラセングループの中心的な人と2人で南相馬市原町区大みか町で民間VCをやっているビジネス

ホテル六角の経営者桜井市長とともに10年くらい前から産廃施設建設反対運動やっていた

大留さん(80才)を訪ねた。

3人でカウンター越しにお茶をすすりながら1年を振り帰ってそれぞれの感想を出しあったもの

だが、なかなか余所では聞けない有意義な思い出話しだったように思う。

たぶん、大留さんにとっては普段日常的にボランテイアに訪れる人々に話しているような話だ

ったのだろう。

しかし、同行した「市民会議」の財界人はともかく、ぼくにとっては何かグサリと来る辛いも

のがあり、「別に金に余裕がなくたってボランテイアをやる奴らは幾らでも居ますよ。」って

言いたかったのだけれど言わなかった。

ぼくらのやろうとしている事をどう思うか、どんな感想でもいいから聞かせてくれと頼んで来

たのだから。

財界人のS氏は、それでも更に「あれですかい?困ったときには只で物をもらって置いて、無

償提供した人が何かたのみ事に来た時には協力しないということですか。」

いや、別に何も重苦しい空気などなかったのですけれど。

 

 

2012年1月28日(Sat)

昨年の5月の第6次東北支援トラック隊の頃だったと思う。

2台に分乗して7人位のクルーだった。

毎回の慣習となったが新宿4丁目の「イメージユニオン」を出発する前には前日夜に用意した

行動予定表をトラックの前で皆に聞こえるように読み上げた。

これも慣習となったが参加者全員に夜のミーテイングの後に閉鎖系メーリングリストや公開型

Blog用に原稿をお願いした。

今日ここに記録として掲載して置くものは、その日の早朝、2次避難所「リゾートイン磐梯」

から南相馬市桜井市長との会見に向かう直前に落手したものである、

塩見氏が気が付いたのであるが、福島第一原発の吉田所長には国民に対する説明責任があると

いうものだった。

そのことを、桜井市長に現実的な南相馬市々民として団体交渉すべきだという提言だった。

5月の時点でこんな大切な本質的な提言に気が付くとは、さすが元・赤軍派議長だけのことは

あるなあと思ったものだが、7人の参加者のなかには異義を唱える者もいたしその頃はまだ吉

田所長という人物が3.11当日の東電に対して極めて重要な事実を知っているという辺りのこと

だが、あとの祭りに結果としてなるのだが国民はいいように葬り去られるのだった。

管から野田に首相が交代して2週間くらい経って吉田所長は病気理由で東電から解任され新し

い所長に交代したと報道される。

実際に吉田は、かなり被爆して居り本郷東大附属病院に入っているというのに、それ以上の

ニュースには全く発展しなかった。

むしろ、これで真実は半分以上は闇に葬られたとすら思える。

それでも東電も少しは国民に対する彼の説明責任を果たしたほうがいいと思ったのか東電

主催で新聞の片隅に小さく、それからテレビニュースでもほんの少しだけお茶を濁す程度に

「あの日は本当に大変でした。」などと解任の記者会見と前後してやったように記憶してい

る。

ああ塩見氏はこのことに6ヶ月前に気が付いたのだった。

しかしその頃、桜井市長を表敬訪問する善意の人々の数は日増しに増えていたけれど、われ

われの会見も当初予定時間の15分を大きく超えて45分くらい塩見氏は一方的に彼の提言を

読み上げたそうである。

そうであると書くしかないことになったのにはある些細なしかし捨て置けぬ理由があり、

その提言が「われわれ」のでなく「一部の有志」によるものであったことにしようとなった

ことについても今となっては過ぎ去ったことであるが、しかし、それでもあの凝縮された緊

急の支援行動のなかで参加した者たちにしか理解不能な眠れぬ夏の夜の夢のように真っ暗な

世界を互いに手探りして気が付いた真実の欠片だったのではないかと思うのだ。

ここからがその前夜に私のMacBookAirに打ち込まれた塩見氏作になる「要望書」の下書き

である。

南相馬市桜井市長への要望>

1、福島第一原発の溶融を停止する作業は未だ進んでいず、汚染水は海に流れだしている。

空への放出は止まっているのか?

福島県の人々、近隣の都道府県、日本全国の不安、実際上の災禍は続いている。原発被害は世

界に広がっている。

2、災禍に遭っている肝心の被災者である福島県民および民衆には、東電・国は福島第一原発

の事態について、その実態を全くといっていい程知らされて居らず、それぞれの人々の個人判

断に委ねられている。

現状は主権者である地域住民は蚊帳のそとに置かれ、「つんぼ桟敷き」の状態といえる。

3、東電・国は、福島第一原発の現場に地域住民を招いて、事故発生現場の現状を住民、県民

に見聞きさせ、対策の実情を説明し、質疑に応じるべきである。

ひいては、限度があるにせよ、住民が安心できるようにすべきである。住民の立場からすれば、

事故対策に主体的に参加「視察」し、作業の実際をある面」から言えば、「監督」・「監視」

できる機会、「場」が作られるべきである。

4、先ず現場の吉田氏らは自治体の長や、苦しみもがきながらも苦闘している主権者の住民を事

故現場に招き、視察させる労をとるべきである。

住民の側は視察の権利がある。

その際、住民の思い、意志を専門的に解説、伝える科学者技術者、他県の関係者の人々、民衆

の側のメデイアの方々も同席させるべきである。

5、桜井市長に、この主権者の福島県民、住民、民衆が、現場視察ができる機会が作られるよう

音頭をとっていただくことを要望する。

ここまで転載終わり。

 

2012年1月15日(Sun)

西へ逃げた人々からの感想が余り届かないということについて、たぶんぼく等のネットワーク

脆弱性にその主たる理由があるのだろうと思う。

30年振りに「甲府のインデイアン」こと糸賀さんに会った。

1966年のことだが、城東二町目の彼の家の近くにある4畳半一間で玄関と炊事場と水洗トイレ付

きの一軒家と聞いた時はいったい全体ぜひ見てみたいと誰もがそう思っただろう。

否本当にひと足違いで法学部1年の同級生が後から見に来たのだった。

その頃、武田神社に近い路地を少し入ったところにあった下宿先の2階の十畳の間に長野出身の

同級生と2人で入っていた。

だけど、どうしても1人になりたいと大家の由紀さおりに似た美人の奥さんに相談した記憶があ

る。

少林寺拳法部の主将としてどうしても(大家の)小母さんに甘えた今の下宿生活から飛び出し

て1人になって自炊や何もかも全部自分でやって行かなければいけないと思うのです。」と訴え

たように思う。

夕食時にも呉服屋の社長の大家さんから何か諭されたような記憶もあるのだが、それは1度、男

子寮から飛び出したときの清々した気持ちとは違う何かしら後ろ髪引くような大きな愛情の眼差

しを背に受けていて甘酸っぱいようなほろ苦いような温かいお腹一杯の夏の初め頃から冬の始ま

りまでの短い下宿生活だった。

それでも一緒に住んでいた「ジュウジョウ」というあだ名で羨ましいような可愛い女友達が何人

もいた同級生からは「頑張れよ、オレはデートの約束があるので引っ越しは手伝へないけど。」

と追い出されたのだった。

引っ越しは誰が手伝ってくれたのだったか、たぶん男子寮にまだ残っていた副将で佐賀出身の川

崎君とその頃の大江健三郎の小説についてよく話し合った静岡出身の木村君だったのではないか

と思うのだが。

朧げに思い出すのであるが、酒折駅で引っ越しのためにリヤカーを借りた記憶が2度以上ある。

2度目のことを書こうとこれを書きはじめたのだったが、まあいいか。

1970年の1月だった。

朝気1丁目の「甲府モダンジャズを聞く会々長」の望月さんが胃の手術で入院している半年間ただで住める

1軒家に善光寺町のアパートにいた全闘委の根茶江浮と同時に引っ越したのだった。

毎晩、電気炬燵で「辻潤」や「稲垣足穂大禅」の全集を読んでいたような気がする。

奴は、「植谷雄高」の全集を読んでいた。

互いにここが死に場所だというくらい読んでいたように思う。

東大全共闘でも何処かで合宿をやったらしいが、京大全共闘銀閣寺アジトだけが5人組という

実践的な綱領を持っていてその後何年も続いたように思う。

弾圧連帯集会の実行委員長だった檜森孝雄と1990年代後半に都内某所ではじめて会った頃のことは

以前にも書いたのだが、彼が銀閣寺アジトのメンバーだったと知ったのは、2002年3月に彼が

自死したあと刊行された彼の遺稿集「水平線の向こうに」を読んでからだった。

1970年代後半のミニコミ・青洞記を交換した京都の読者に何となくそれらしい人がいたのだが、

檜森氏のことではない。

ぼく等のアジトにあと2人くらい引っ越して来たが彼らは卒業式までいてすぐに帰省したのだ

った。

1969年の秋にはもう町外れの銃砲店で散弾銃や村田銃を実際に持ってみたりしていたという

のに。

だけど、生活のために君らならどんなことでもへっちゃらでやれるだろうと新日本文学会甲府

読者会で煽てられて、だけど、無用の介は何処か一抹の寂しそうな顔をして「総合サービス社」

という看板を下宿先の大家の家の玄関に掲げさしてもらったのだった。

それでぼく等敗残兵の黒ヘルノンセクトラジカルの全闘委の仲間や「路線」の異なる中核派

全共闘の後輩たちまで皆がどどっとなだれ込んで来たのだった。

主な仕事は掃除屋だったが、無用の介が取って来たガラス屋の請け負い仕事で

石和の県営住宅の新築現場でアルミサッシのコーキングの仕事がぼくが社会に出てはじめてやっ

た仕事だった。

いやはや、自分がこんなにブキッチョだったとは、現場監督も呆れて本来なら怒鳴るべきところ

だったろうに

「ガンが悪いのか腕が悪いのか知らないけれど、」と全階やり直しとなったのだった。

何とも取り留めのない話をしたものである。

体調は、絶不調である。

左足首と右手首と右斜め後ろ首が腫れたままもう3週間も経っている。

予想だにしなかったような癌宣告の夢を見る。

獄中15年だったかシャコに教わった某国際的自然治癒力口伝の民間医療法を今年の春以来一

日も欠かさず1日に2クルーから3クルーを必死で飲んでいる。

さてさて、どうなのだ。

春以来ザワザワと急にピンク色に変色して成長し始めた背中から首にかけて無数に生い茂った

感じの長さ2ミリくらいの「ひっ吊りイボ」は今頃は少しは沈静化したのか。

急激に左目の視力が落ちて行くのが分かる。

糞の切れがこの1年異常にいいのに比例して、肛門の周りの尻に氷りを抱いているような異常

な冷たいものをを感じる。

大腸検査で生まれてはじめて陽性と診断された。

たまに下血している。

クルーによって薄められてはいるがピンク色の鮮血である。

しかし、何とかしてあと10年は生きたい。

郷里に残した母の繰り言を最後の最後まで聞かなければならない。

もう分かっているのだけれど。

甲野善紀Twitterで先日、N・Yの何処かの病院の壁に死ぬまで貧困と闘った人が書いた

というメッセージが紹介されていた。

勝敗はもう分かっているのだけれど、もう一ラウンドだけ最後のリングに上がろう。

<画像>

秋麻里

ソプラノサックス・ソロ

1981

 

2012年1月8日(Sun)

1969年秋の学園闘争のさなかにぼく等は甲府市内にある某ホテルの大広間に結集したこと

があった。

議題のなかに逃亡中の仲間についてというのがあった。

大学はロックアウトされていたので酒折駅から電車に乗って来た者、あるいは甲州街道を歩

いて来た者たちが三々五々集まり100人くらいで車座になって最初に自己紹介をしたような

いやそんなことはしなかった。

だいたい全員の顔が誰であるかくらいは既知のことであった。

この話は40年くらいまえに拙著『青洞記』でいちど触れたことがあった。

しかし、今日思い出しているのはおなじテーマなのであるけれど、筆法でいうと「入り」の

角度がちがうところからキャンバスを見ているような案配である。

案の定、翌朝、甲府警察署警備課の私服が2人で私の下宿先を訪ねて来て、

「やはりオサフネ君が委員長だったのか。」と予想した通りの反応であった。

本当は、無用之介くんが委員長であるが「敵の人心をかく乱する」目的でその日だけ私が委

員長役を演じたのだった。

さて誰が内通者だったのだろう。

逃亡中のK君を何処に匿うかについて100人の仲間が車座になって話したのだった。

思った通りの結果にぼく等は互いに苦笑したものである。

いやただの笑い話しのようなものだった。

なぜかって言うとぼく等はその時あらぬものに向かって突進中だったしね。